祭りこぼれ話

題名
内容
身内の不幸も祭りに出ない言い訳にはなりません
競り合いがエスカレートすると
同じ囃子を伝える仲間

血染めの笛

根古市さんのこと

鉾立石

何と罰当たりな

神田川原にのろしを上げて

昔の競り合いではもめ事が多かったそうな

露店が無かった祭り

それはさびしい物でした


富士宮のお祭りに関連する言い伝えをご紹介します。

富士宮の特殊事情

 神事が穢れを嫌うと云うことから女人禁制とか身内の不幸があった人が祭りに参加しないと言うことがよくあります。穢れとは気枯れのことで、体調の不調や身内の不幸などで元気が出ない状態などを指すのだそうです。
 昨年身内の不幸があったとき葬儀社の方にこんな話を伺いました。葬儀後当日に初七日を行うところは世に多いが富士宮では四十九日を行うことが多い。これは浅間大社の門前町と言うことが関係しているのではないかと推察され、身内の不幸などで神社の出入りが出来なくては仕事が成り立たないので、葬儀の後当日に四十九日を済ませることで忌み明けとしたのではとのこと。
 現に身内に不幸があっても祭りを休まなかったという話は良く聞きます。要は当人の心持ち次第なのですがね。

平成14年11月12日 佐野記


物騒な話

 自分はある区で囃子方として参加している高校生です。昭和初期の武勇伝をお話します。
 近所のおじいさんが若い頃、ある町内と競り合いになり、どちらも一歩も引かず、勇壮な競り合いを繰り広げていた時でした、当時鉦の名手として区内で名をはせていた若い衆がおもむろに日本刀を取り出し相手町内のおおどをひとつきにしてしまったそうです。もちろん、相手は怒りだし一触即発、しかし当区の血の気の多い若い衆は日本刀やてこ棒、一升瓶などを振り回し相手を丸め込め何事もなかったかのように振る舞っていたそうです。その話が近隣の町内に広まり、西に○○あり。と恐れられたと聞いています。
 今でも、西の○○、東の△△。という言葉が残っています。相手が△△さんなのか、わかりませんがすごい話を聞くことができました。

平成14年11月12日 投稿


血染めの笛
 明治の末頃の話。
 沼津市に住んでいた按摩さんでお囃子の名人がいました。根古屋出身なので根古市さんと呼ばれていたその方は強い笛を吹くというので、請われて近隣のお祭りでも笛を吹くことがよくあったそうです。
 ある年、大宮の秋まつりに請われて笛を吹きに来たそうな。
髭をあたってもらおうと入った床屋は、なんと以前の競り合いでさんざんにうち負かされた相手の笛吹きで、それを恨んだ床屋は卑怯にもかみそりで根古市さんの唇を切り裂いたと言います。
 これで笛も吹けず逃げ帰っただろうと思っていた床屋は、多少の後ろめたさは感じながらも山車に乗り、いつものように笛を吹いていました。因縁の競り合い相手の山車が見えたとき、床屋はあっと声を上げへたりこんでしまいました。
 なんと切られた唇から血を飛沫かせながらも根古市さんは笛を吹いていたのです。
 この時の無理がたたって、唇の傷は大きくあとを残すことになりました。しかしこの話は彼の名を冠した根古市流沢田祭り囃子とともに沼津市沢田に今も伝えられています。


鉾立石(ほこたていし)
 浅間大社楼門前の馬場側の石段の真ん中に鎮座しているのが鉾立石(ほこたていし)です。かつて山宮浅間神社までお祭りに行く際に、この石に鉾を立てて休んだあとは山宮につくまで鉾を地につけることは許されなかったということからその名がついたそうです。
ところでこの鉾立石にはセメントで接いだあとがあるのにお気づきでしょうか?
 かつて区長だった方よりうかがった話です。
 その町内の青年が酔って浅間大社を通りかかった際に鉾立石を持ち上げられるかどうかという話になり、寄ってたかって持ち上げたそうです。しかしあまりの重さに耐えかね取り落としてしまい、石は割れてしまいました。権宮司が区長の所に怒鳴り込んできたのも当然のこと。いわれのある大事な物を損なうとはとんでもないことで、元に戻せと迫ったそうです。しかし割れた物は元に戻るわけもなく困った区長は「元に戻す方法があるのならぜひあなたがやってみて下さい。」と返答しよけい怒りを買ったとのこと。
 結局、割れた石はドリルで穴を開け鉄筋を通してセメントで継ぎ目を埋めました。鉾立石前の石段には今でもその時に出来た傷が残っています。

※この鉾立石を落として割ったのは実は怒鳴り込まれた町内ではなく隣の町内の青年だったとのこと。とんだ濡れ衣ではありますが、ふだんの青年の行状から区長も反論のしようがなかったのでしょう。


神田川原にのろしを上げて
 その昔川東のある町内と川西の町内がお祭りの競り合いでもめることがあり、その場は双方引いたけれどもどうにもおさまらず、川東の町内は殴り込みに行こうと神田川に集結した。しかし相手の町内に行くにはその前に他の町内を通らなければならない。神田川の畔で焚き火をしてひたすら交渉をしたけれども、結局通過の了解が得られず大事にはならずにすんだ。
 この様子を新聞は「神田川原にのろしを上げて」と題して記事にしたそうな。


露店のない祭り
 秋まつり実施区以外の富士宮市民の方にとっては秋まつりと言えば境内に所狭しと立ち並ぶ露店見物なのかもしれません。毎年春と秋に行われる「流鏑馬祭」と「秋季例大祭」は子供達にとってもお祭りのお小遣いを貰い、境内の露店をあちこちひやかしながら歩き回るのが何よりの楽しみだと言えましょう。
 ところがこの露店が一切出なかった事があります。
 昭和54年の秋祭りがそれで、殺人事件に端を発し報復等で市民が巻き込まれることがないようにと警察の勧告で全ての露天商が出店を自粛したのです。山車の引き回しはそれぞれ行いましたが、境内に露店のない祭りは何ともさびしい物で浅間大社を訪れた人は皆一様にがっかりしておりました。
この年に撮影された教育委員会製作の「富士宮ばやし」という8ミリ映画に、露天商のいない境内に宮参りするそれぞれの町内が写っています。
 宮本区ではこのさびしい境内を賑わそうと屋台(57年に山車に改修)を西門石段より曳き入れ、楼門前で参拝しました。


湧玉の囃子

 昭和初期の事、湧玉のある町内が当番町として他町を引き回していたときに前後を磐穂の2つの町内に挟まれ、行くも戻るも出来なくなりました。挟まれたという伝令が飛ぶや湧玉の他町の囃子方が袢天を脱いで駆けつけ、囃子を交代しながら延々と続けたので、挟んだ方の町内が音を上げ道を譲ったということです。
 当時の祭り組はまだ同じ囃子を伝えているという連帯感も強かったもののようです。祭り組間での競い合いと協調の好例ではないでしょうか。
 このように湧玉を親名に名乗るのは同じ「湧玉囃子」を伝えているという名残らしく、当時は他町とはいえ息をそろえて一緒に叩くことも自然に出来た物のようです。それぞれの祭り組が確立されて久しいのですが、それゆえに町内毎のお囃子はそれぞれ独特の個性を持つようになりました。個性が伝えられるというのも伝承的にはもちろん必要なことですが、同時にその大元が一緒であったということも忘れてはならない事では無いでしょうか。

富士宮秋まつり、囃子、青年に関する言い伝えなどをこちらのページでご紹介したいと思います。武勇伝など町名を伏せる必要があればそのようにしますので、富士宮囃子保存会宛にメールでお送りいただくか、

〒418-0067
富士宮市宮町14-1
佐野写真館内富士宮囃子保存会

宛に文書でお送りいただければ幸いです。

保存会会合の際にご持参いただいてもかまいません。

よろしくお願いします。

 

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